LOGIN放送室へ続く廊下は、二年七組の扉の向こうで黒く沈んでいた。
天井のスピーカーは沈黙している。それでも、少女の声が消えたあとの空気には、まだ薄い震えが残っているようだった。
次は、放送室です。
その言葉を聞いてから、誰も最初の一歩を踏み出さなかった。
「行かない」
美月が最初に口を開いた。
救急鞄の持ち手を握りしめ、教室の中央に立つ。青白い照明が頬を照らし、疲労の影を深くしていた。
「相手の指示へ従うたび、危険が増えてる。門では閉じ込められた。階段では澪が殺されかけた。この教室では、誰かの嘘を数えられた。次が放送室だからって、素直に行く理由はない」
「ここへ残る理由もないだろ」
悠斗が工具箱を持ち直す。
「扉はまた閉じるかもしれない。廊下へ出られるうちに移動した方がいい」
「移動することと、指定された場所へ行くことは別よ」
「じゃあ、どこへ行く。出口へ戻ろうとして三回ここへ戻された」
「だからこそ、相手が望む方向へ進むべきじゃない」
美月の声には苛立ちより恐怖があった。
感情を押し殺すたび、言葉が鋭くなる。高校時代から変わらない。誰かが怪我をすれば真っ先に駆け寄り、そのあとで無茶をした本人を容赦なく叱った。
澪は朔の手にある古いビデオカメラを見た。
液晶は停止画面へ戻っている。制服姿の少女は消え、青い砂嵐だけが揺れていた。そこに映っていた指先の向きは、今も廊下の奥を示しているように思えた。
「放送室なら、校内の設備が集まってる」
透が言った。
それまで壁際で録音機を操作していた彼は、画面から目を上げない。
「スピーカーの配線も、校内の集音装置も、元はあそこへつながっていた。今流れてる音の出所を探すなら、放送室が一番近い」
「今流れてる音?」
奈々香が眉を寄せる。
「放送は止まってるでしょ」
「止まってない」
透は録音機の小さなスピーカーを切り、ヘッドフォンの片側を外した。
「聞こえないだけだ」
その言い方に、澪の皮膚が粟立つ。
透は再び八年前の映像を再生し、音声だけを自分の機器へ送った。画面には、理科準備室の前で揺れる光景が映っている。澄花が扉の内側へ押し込まれた直後、音が途切れる箇所。
透は波形を大きく広げた。
「ここに低い信号が入ってる」
液晶の下端に、ほとんど平らな線が続いている。規則的に盛り上がる小さな山は、澪には機械の誤差にしか見えなかった。
「人にはほとんど聞こえない周波数だ。素材が混ざらないように、録音ごとに違う間隔で識別音を入れてた」
「そんなもの、いつから」
悠斗が問う。
「一年の終わり頃から。奈々香が複数の音源を同じ名前で保存して、どれがどれか分からなくなったことがあった」
「私のせいにしないでよ」
奈々香は反射的に言ったが、声に力はない。
「それで、音の端に印を入れた。再生すれば聞こえない。解析したときだけ分かる」
透の指が波形の一部を示す。
「この間隔は、七刻女学校で使ったものと同じだ」
「なら、八年前の音源から拾って使っただけだろ」
悠斗が言う。
「原音があればできる」
「その原音を持ってたのは誰?」
美月の問いが落ちた。
透はゆっくり顔を上げた。
「俺と、朔」
教室の空気が変わった。
悠斗の視線が、古いカメラを持つ朔へ向く。
「お前なら作れるってことか」
朔は否定しなかった。
「技術的には可能だ」
「ずいぶん素直だな」
「できることを、できないとは言わない」
「じゃあ、この映像も音も、お前が作った可能性がある」
「可能性だけならある。だが、俺の手元に元データはない」
「それを信じろって?」
悠斗が一歩詰める。
靴底が砕けた硝子を踏み、細い音を立てた。
「八年前のカメラを今日だけ都合よく持ってきて、規格の違うテープまで再生できた。しかも、そのラベルはお前の字にそっくりだ。偶然で済ませるには多すぎるだろ」
「カメラを持ってきた理由は説明した」
「警察へ出したはずのテープが、なぜここにある」
「知らない」
「お前が隠してたんじゃないのか」
朔は悠斗を見返した。
声を荒らげることも、距離を取ることもしない。静かなまま立っている。その落ち着きが、澪にはかえって恐ろしく感じられた。
「俺が隠していたなら、全員の前で再生する必要はない」
「見せたい部分だけ作ったのかもしれない」
「悠斗」
澪が止めようとすると、彼は振り向いた。
「お前は朔を信じすぎる」
言葉が胸へ刺さった。
「八年前もそうだった。朔が動くなと言えば動かなかった。ここにいろと言えば残った。だから、お前だけ覚えてないことが多いんじゃないのか」
澪は返せなかった。
暗い廊下。
閉じた扉。
澄花が呼ぶ声。
その前に立つ朔の背中。
記憶はそこまで浮かび、白く切れる。
「言い争っても音源は戻らない」
透が低く言った。
彼の視線は、朔にも悠斗にも向いていなかった。波形だけを見ている。
「放送室へ行けば、古い卓上機器が残ってるかもしれない。記録媒体があれば、欠けた部分を探せる」
「一人で決めないで」
美月が透の前へ立った。
「その音が本物だとしても、誰かがあなたをそこへ行かせたがってる。今のあなたは冷静じゃない」
「俺は冷静だ」
「だったら、さっきから何度同じ八分を聞き返してるの」
透の指が止まった。
録音機の液晶には、同じ箇所を十七回再生した履歴が残っている。
「澄花の声が入ってるかもしれない」
「だからこそ、一人で動かないで」
「声が残ってるなら、消した理由も分かる」
「消したのはあなたなの?」
美月の問いに、透の顔から色が抜けた。
誰も息をしなかった。
透は返事をしない。
ポケットの中で、折り畳んだ紙へ触れている。
八分十三秒の音声を消したのは誰?
澪は机の中へ入れたはずの問いが、透のポケットにもう一枚残っていたように見えたことを思い出した。
そのとき、透の録音機が短く振動した。
小さな受信音。
全員が手元を見た。
「通信、切れてるんじゃなかったの」
奈々香が自分の端末を確認する。
画面には圏外と表示されている。澪のスマートフォンも同じだった。
透の録音機だけに、新しい音声ファイルが届いていた。
送信元の欄は空白。
ファイル名もない。
再生時間は八分十三秒だった。
「開くな」
朔が言った。
透はすでにヘッドフォンを両耳へ当てていた。
再生ボタンを押す。
最初の数秒、表情は変わらない。
次に、眉が僅かに寄る。
唇から血の気が失われ、録音機を持つ手が震え始めた。
「透?」
澪が近づく。
彼は聞こえていないように、画面を巻き戻した。
もう一度再生する。
息を止め、途中で音量を上げる。
「何が入ってるの?」
透は答えない。
三度目。
同じ箇所へ戻す。
ヘッドフォンの外へ、ごく小さな音が漏れた。
雨。
金属を叩く音。
その奥で、少女が何かを話している。
澪には言葉まで聞き取れない。
透は突然、ヘッドフォンを外した。
「澄花は、あの夜には死んでない」
誰も意味を理解できなかった。
「どういうこと?」
澪の声が掠れる。
「事件のあとも生きてた。少なくとも、この録音が作られた時点では」
「何が入ってるの」
「朝の音だ」
透の呼吸が乱れている。
「雨が弱くなってる。鳥も鳴いてる。それだけじゃない。午前五時過ぎに到着した捜索車両の後退警告音と、門を開けるために使った切断機の音が入ってる。事件記録に残っていた時刻とも合う」
透は再生位置を示した。波形の中ほどに、短い電子音が一定の間隔で並び、その直後に金属を削る甲高い響きが重なっている。
「この音がしたとき、俺たちはもう警察の車の中にいた。事情を聞かれるために山を下りてた。校内には誰も残っていないって聞かされた」
「その中で澄花が喋ってる」
「何て?」
美月が訊いた。
透は答えようと口を開き、閉じた。
ヘッドフォンの耳当てから、少女の声が僅かに漏れた。
『まだ、ここに――』
そこで透が停止を押した。
澪の胸が締めつけられる。掠れてはいたが、言葉の終わりに息を吸う癖は澄花と同じだった。走ったあとや、泣くのを隠そうとしたとき、彼女はいつも短く二度息を吸った。
「続きは?」
澪が手を伸ばす。
透は録音機を引き寄せた。
「聞かせろ」
悠斗が手を伸ばす。
透は録音機を胸へ抱えた。
「駄目だ」
「何でだよ」
「これは俺に届いた」
「全員に関係ある」
「駄目だ!」
透の声が初めて教室へ響いた。
その目には恐怖だけではなく、何かを確信した者の危うい光があった。
「放送室へ行く」
「待って」
澪が腕を掴もうとした。
透は身をひねって避け、開いた扉から廊下へ走り出した。
「透!」
六人の足音が一斉に動く。
朔が先頭で追う。澪と奈々香が続き、美月と悠斗も教室を飛び出した。
透は廊下の先で角を曲がる。
録音機の赤い灯りだけが、暗闇の中を揺れていた。
突然、天井で警報音が鳴った。
低い金属音。
朔が足を止める。
「下がれ!」
防火シャッターが落ちた。
澪の目の前へ、灰色の鉄板が轟音とともに降りる。
朔が澪の肩を引き、奈々香ごと後ろへ押し戻した。シャッターの下端が床へ叩きつけられ、埃と錆が白く舞う。
「美月!」
澪が叫ぶ。
反対側から、美月の手が一瞬だけ隙間へ見えた。
「こっちは悠斗といる!」
鉄板越しに声が返る。
「透は?」
「前にいる!」
次の瞬間、さらに遠くで二度目の警報音が鳴った。
美月の叫び。
金属が落ちる激しい音。
廊下の向こうで、もう一枚の防火シャッターが閉じた。
「透!」
悠斗が鉄板を叩く音がする。
これで、澪、朔、奈々香の三人。
その先に、美月と悠斗。
さらに向こう側へ、透が一人取り残された。
閉ざされた鉄板の両側で、互いの姿は見えない。声だけが薄い金属を震わせて届く。奈々香の荒い呼吸と、美月が悠斗へ工具を出すよう命じる声と、何度もシャッターを蹴る鈍い音が、別々の場所から重なった。
廊下の灯りが一つ消えた。
続いて、もう一つ。
闇が透のいる方角から順番に近づき、最後には朔の懐中電灯だけが三人の顔を照らした。
朔は最初のシャッターへ手を当て、下端を持ち上げようとした。鉄板は床へ食い込み、僅かにも動かない。
「工具は悠斗が持ってる」
奈々香が泣きそうな声で言う。
「どうするの。透、一人だよ」
澪はシャッターを拳で叩いた。
「透! 聞こえる?」
返事はない。
代わりに、壁際の古いインターホンから雑音が流れた。
ざあ、と砂を擦るような音。
ランプは消えている。電源の配線も壁から垂れ、途中で切れていた。
それでも受話口から、透の声がした。
『放送室へ行く』
「一人で行かないで!」
澪はインターホンへ顔を寄せた。
「待って。今、シャッターを開けるから」
『あそこなら、音の出所が分かる』
「透、さっきの音を聞かせて。澄花は何て言ってたの?」
雑音が強くなる。
透の呼吸が遠ざかる。
『俺が聞かなかったからだ』
「何を?」
『あのときも、声は入ってた』
言葉の最後が歪んだ。
その背後に、別の呼吸が混ざる。
浅く震える少女の息。
ひゅう。
ひゅう。
澪はインターホンを握りしめた。
「透、後ろを見ないで」
雑音の中から、少女の声が聞こえた。
『透を一人にしないで』
澄花の声だった。
八年前と変わらない、切迫した声。
澪が名を呼ぶ前に、遠くで扉が閉まった。
重い防音扉が、ゆっくりと枠へ吸い込まれる音。
続いて、鍵が内側から回された。
放送室の方角からだった。
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか
西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。 舞踊室。「ここ……」 奈々香が足を止めた。「覚えてる」 声は小さい。 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。「八年前に来たよね」「来た」 悠斗が答えた。 迷いのない声だった。「ここの鏡が七不思議の一つだった」 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。 細い隙間から、埃の積もった床が見える。 糸や配線はない。「どんな噂だった?」 美月が悠斗へ尋ねる。 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」 低い軋みとともに扉が開く。「最後の一人だけ、鏡の中に残される」 舞踊室の暗闇が現れた。「残った奴は、翌朝までに消える」 澪の背中を冷たいものが走った。 部屋は細長かった。 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。 そして、左側の壁一面。 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。 澪。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 五人。 鏡の中にも五人。 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。「当時は何も起きなかった」 悠斗が部屋へ入りながら言った。「澄花がふざけて隠れただけだった」 澪は顔を上げた。「隠れた?」「ああ」「ここで?」「そうだ」 悠斗は当然のことのように答える。「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」「裏って、どこ」「カーテンの向こうか何かだっただろ」 澪は舞踊室を見回した。 壁際にカーテンはない