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第9話 原音を知る者

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-04 09:01:57

 放送室へ続く廊下は、二年七組の扉の向こうで黒く沈んでいた。

 天井のスピーカーは沈黙している。それでも、少女の声が消えたあとの空気には、まだ薄い震えが残っているようだった。

 次は、放送室です。

 その言葉を聞いてから、誰も最初の一歩を踏み出さなかった。

「行かない」

 美月が最初に口を開いた。

 救急鞄の持ち手を握りしめ、教室の中央に立つ。青白い照明が頬を照らし、疲労の影を深くしていた。

「相手の指示へ従うたび、危険が増えてる。門では閉じ込められた。階段では澪が殺されかけた。この教室では、誰かの嘘を数えられた。次が放送室だからって、素直に行く理由はない」

「ここへ残る理由もないだろ」

 悠斗が工具箱を持ち直す。

「扉はまた閉じるかもしれない。廊下へ出られるうちに移動した方がいい」

「移動することと、指定された場所へ行くことは別よ」

「じゃあ、どこへ行く。出口へ戻ろうとして三回ここへ戻された」

「だからこそ、相手が望む方向へ進むべきじゃない」

 美月の声には苛立ちより恐怖があった。

 感情を押し殺すたび、言葉が鋭くなる。高校時代から変わらない。誰かが怪我をすれば真っ先に駆け寄り、そのあとで無茶をした本人を容赦なく叱った。

 澪は朔の手にある古いビデオカメラを見た。

 液晶は停止画面へ戻っている。制服姿の少女は消え、青い砂嵐だけが揺れていた。そこに映っていた指先の向きは、今も廊下の奥を示しているように思えた。

「放送室なら、校内の設備が集まってる」

 透が言った。

 それまで壁際で録音機を操作していた彼は、画面から目を上げない。

「スピーカーの配線も、校内の集音装置も、元はあそこへつながっていた。今流れてる音の出所を探すなら、放送室が一番近い」

「今流れてる音?」

 奈々香が眉を寄せる。

「放送は止まってるでしょ」

「止まってない」

 透は録音機の小さなスピーカーを切り、ヘッドフォンの片側を外した。

「聞こえないだけだ」

 その言い方に、澪の皮膚が粟立つ。

 透は再び八年前の映像を再生し、音声だけを自分の機器へ送った。画面には、理科準備室の前で揺れる光景が映っている。澄花が扉の内側へ押し込まれた直後、音が途切れる箇所。

 透は波形を大きく広げた。

「ここに低い信号が入ってる」

 液晶の下端に、ほとんど平らな線が続いている。規則的に盛り上がる小さな山は、澪には機械の誤差にしか見えなかった。

「人にはほとんど聞こえない周波数だ。素材が混ざらないように、録音ごとに違う間隔で識別音を入れてた」

「そんなもの、いつから」

 悠斗が問う。

「一年の終わり頃から。奈々香が複数の音源を同じ名前で保存して、どれがどれか分からなくなったことがあった」

「私のせいにしないでよ」

 奈々香は反射的に言ったが、声に力はない。

「それで、音の端に印を入れた。再生すれば聞こえない。解析したときだけ分かる」

 透の指が波形の一部を示す。

「この間隔は、七刻女学校で使ったものと同じだ」

「なら、八年前の音源から拾って使っただけだろ」

 悠斗が言う。

「原音があればできる」

「その原音を持ってたのは誰?」

 美月の問いが落ちた。

 透はゆっくり顔を上げた。

「俺と、朔」

 教室の空気が変わった。

 悠斗の視線が、古いカメラを持つ朔へ向く。

「お前なら作れるってことか」

 朔は否定しなかった。

「技術的には可能だ」

「ずいぶん素直だな」

「できることを、できないとは言わない」

「じゃあ、この映像も音も、お前が作った可能性がある」

「可能性だけならある。だが、俺の手元に元データはない」

「それを信じろって?」

 悠斗が一歩詰める。

 靴底が砕けた硝子を踏み、細い音を立てた。

「八年前のカメラを今日だけ都合よく持ってきて、規格の違うテープまで再生できた。しかも、そのラベルはお前の字にそっくりだ。偶然で済ませるには多すぎるだろ」

「カメラを持ってきた理由は説明した」

「警察へ出したはずのテープが、なぜここにある」

「知らない」

「お前が隠してたんじゃないのか」

 朔は悠斗を見返した。

 声を荒らげることも、距離を取ることもしない。静かなまま立っている。その落ち着きが、澪にはかえって恐ろしく感じられた。

「俺が隠していたなら、全員の前で再生する必要はない」

「見せたい部分だけ作ったのかもしれない」

「悠斗」

 澪が止めようとすると、彼は振り向いた。

「お前は朔を信じすぎる」

 言葉が胸へ刺さった。

「八年前もそうだった。朔が動くなと言えば動かなかった。ここにいろと言えば残った。だから、お前だけ覚えてないことが多いんじゃないのか」

 澪は返せなかった。

 暗い廊下。

 閉じた扉。

 澄花が呼ぶ声。

 その前に立つ朔の背中。

 記憶はそこまで浮かび、白く切れる。

「言い争っても音源は戻らない」

 透が低く言った。

 彼の視線は、朔にも悠斗にも向いていなかった。波形だけを見ている。

「放送室へ行けば、古い卓上機器が残ってるかもしれない。記録媒体があれば、欠けた部分を探せる」

「一人で決めないで」

 美月が透の前へ立った。

「その音が本物だとしても、誰かがあなたをそこへ行かせたがってる。今のあなたは冷静じゃない」

「俺は冷静だ」

「だったら、さっきから何度同じ八分を聞き返してるの」

 透の指が止まった。

 録音機の液晶には、同じ箇所を十七回再生した履歴が残っている。

「澄花の声が入ってるかもしれない」

「だからこそ、一人で動かないで」

「声が残ってるなら、消した理由も分かる」

「消したのはあなたなの?」

 美月の問いに、透の顔から色が抜けた。

 誰も息をしなかった。

 透は返事をしない。

 ポケットの中で、折り畳んだ紙へ触れている。

 八分十三秒の音声を消したのは誰?

 澪は机の中へ入れたはずの問いが、透のポケットにもう一枚残っていたように見えたことを思い出した。

 そのとき、透の録音機が短く振動した。

 小さな受信音。

 全員が手元を見た。

「通信、切れてるんじゃなかったの」

 奈々香が自分の端末を確認する。

 画面には圏外と表示されている。澪のスマートフォンも同じだった。

 透の録音機だけに、新しい音声ファイルが届いていた。

 送信元の欄は空白。

 ファイル名もない。

 再生時間は八分十三秒だった。

「開くな」

 朔が言った。

 透はすでにヘッドフォンを両耳へ当てていた。

 再生ボタンを押す。

 最初の数秒、表情は変わらない。

 次に、眉が僅かに寄る。

 唇から血の気が失われ、録音機を持つ手が震え始めた。

「透?」

 澪が近づく。

 彼は聞こえていないように、画面を巻き戻した。

 もう一度再生する。

 息を止め、途中で音量を上げる。

「何が入ってるの?」

 透は答えない。

 三度目。

 同じ箇所へ戻す。

 ヘッドフォンの外へ、ごく小さな音が漏れた。

 雨。

 金属を叩く音。

 その奥で、少女が何かを話している。

 澪には言葉まで聞き取れない。

 透は突然、ヘッドフォンを外した。

「澄花は、あの夜には死んでない」

 誰も意味を理解できなかった。

「どういうこと?」

 澪の声が掠れる。

「事件のあとも生きてた。少なくとも、この録音が作られた時点では」

「何が入ってるの」

「朝の音だ」

 透の呼吸が乱れている。

「雨が弱くなってる。鳥も鳴いてる。それだけじゃない。午前五時過ぎに到着した捜索車両の後退警告音と、門を開けるために使った切断機の音が入ってる。事件記録に残っていた時刻とも合う」

 透は再生位置を示した。波形の中ほどに、短い電子音が一定の間隔で並び、その直後に金属を削る甲高い響きが重なっている。

「この音がしたとき、俺たちはもう警察の車の中にいた。事情を聞かれるために山を下りてた。校内には誰も残っていないって聞かされた」

「その中で澄花が喋ってる」

「何て?」

 美月が訊いた。

 透は答えようと口を開き、閉じた。

 ヘッドフォンの耳当てから、少女の声が僅かに漏れた。

『まだ、ここに――』

 そこで透が停止を押した。

 澪の胸が締めつけられる。掠れてはいたが、言葉の終わりに息を吸う癖は澄花と同じだった。走ったあとや、泣くのを隠そうとしたとき、彼女はいつも短く二度息を吸った。

「続きは?」

 澪が手を伸ばす。

 透は録音機を引き寄せた。

「聞かせろ」

 悠斗が手を伸ばす。

 透は録音機を胸へ抱えた。

「駄目だ」

「何でだよ」

「これは俺に届いた」

「全員に関係ある」

「駄目だ!」

 透の声が初めて教室へ響いた。

 その目には恐怖だけではなく、何かを確信した者の危うい光があった。

「放送室へ行く」

「待って」

 澪が腕を掴もうとした。

 透は身をひねって避け、開いた扉から廊下へ走り出した。

「透!」

 六人の足音が一斉に動く。

 朔が先頭で追う。澪と奈々香が続き、美月と悠斗も教室を飛び出した。

 透は廊下の先で角を曲がる。

 録音機の赤い灯りだけが、暗闇の中を揺れていた。

 突然、天井で警報音が鳴った。

 低い金属音。

 朔が足を止める。

「下がれ!」

 防火シャッターが落ちた。

 澪の目の前へ、灰色の鉄板が轟音とともに降りる。

 朔が澪の肩を引き、奈々香ごと後ろへ押し戻した。シャッターの下端が床へ叩きつけられ、埃と錆が白く舞う。

「美月!」

 澪が叫ぶ。

 反対側から、美月の手が一瞬だけ隙間へ見えた。

「こっちは悠斗といる!」

 鉄板越しに声が返る。

「透は?」

「前にいる!」

 次の瞬間、さらに遠くで二度目の警報音が鳴った。

 美月の叫び。

 金属が落ちる激しい音。

 廊下の向こうで、もう一枚の防火シャッターが閉じた。

「透!」

 悠斗が鉄板を叩く音がする。

 これで、澪、朔、奈々香の三人。

 その先に、美月と悠斗。

 さらに向こう側へ、透が一人取り残された。

 閉ざされた鉄板の両側で、互いの姿は見えない。声だけが薄い金属を震わせて届く。奈々香の荒い呼吸と、美月が悠斗へ工具を出すよう命じる声と、何度もシャッターを蹴る鈍い音が、別々の場所から重なった。

 廊下の灯りが一つ消えた。

 続いて、もう一つ。

 闇が透のいる方角から順番に近づき、最後には朔の懐中電灯だけが三人の顔を照らした。

 朔は最初のシャッターへ手を当て、下端を持ち上げようとした。鉄板は床へ食い込み、僅かにも動かない。

「工具は悠斗が持ってる」

 奈々香が泣きそうな声で言う。

「どうするの。透、一人だよ」

 澪はシャッターを拳で叩いた。

「透! 聞こえる?」

 返事はない。

 代わりに、壁際の古いインターホンから雑音が流れた。

 ざあ、と砂を擦るような音。

 ランプは消えている。電源の配線も壁から垂れ、途中で切れていた。

 それでも受話口から、透の声がした。

『放送室へ行く』

「一人で行かないで!」

 澪はインターホンへ顔を寄せた。

「待って。今、シャッターを開けるから」

『あそこなら、音の出所が分かる』

「透、さっきの音を聞かせて。澄花は何て言ってたの?」

 雑音が強くなる。

 透の呼吸が遠ざかる。

『俺が聞かなかったからだ』

「何を?」

『あのときも、声は入ってた』

 言葉の最後が歪んだ。

 その背後に、別の呼吸が混ざる。

 浅く震える少女の息。

 ひゅう。

 ひゅう。

 澪はインターホンを握りしめた。

「透、後ろを見ないで」

 雑音の中から、少女の声が聞こえた。

『透を一人にしないで』

 澄花の声だった。

 八年前と変わらない、切迫した声。

 澪が名を呼ぶ前に、遠くで扉が閉まった。

 重い防音扉が、ゆっくりと枠へ吸い込まれる音。

 続いて、鍵が内側から回された。

 放送室の方角からだった。

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